熱海 カフェー街とわんたんや、のココロ。

正月の松もとれて少しづつ陽も延びてきましたが、まだまだ寒さは厳しいですな。
しかし、熱海 糸川沿いの桜は間もなく満開の時を迎えようとしています。
ところで、昔からの温泉場というのは、古き良き時代には色町としても栄えていたといいます。
IMG_4976最近は、若い人たちの間でも江戸 新吉原や京 島原が注目を集めているように、かつて禁忌とされていた色町の様子が話題に上ることも多くなりました。
お上に認められた、いわゆる公娼といえば、先の吉原や島原と並んでわがふるさとしずおかの『二丁町』もその名を知られた存在です。
江戸が明治に変わり、さらに敗戦を迎えると、GHQは公娼廃止令を発布します。
しかし、かの地では半ば公然と営業が続けられ、これらは『赤線』と呼ばれるようになりました。
IMG_6247警察が管理のために伝統的な遊郭地帯を地図上で赤く囲ったことからこの名がついたのだといいます。
これに対して『青線』は昔の岡場所みたいな“非合法の色町”を指すとか。
日本では、58年に売春禁止法が施行されて、表向きにはこれらの営業は全面的に禁止されますが、赤い線や青い線で囲われた多くの町はその佇まいを平成の今に残しています。
貸座敷、玉の井、鳩の街、酩酊屋、カフェー街なんてキーワードを目にすると、なんとなくノスタルジーを感じます。

IMG_6248湯の町 熱海でも、糸川沿いをそぞろ歩くと、そこかしこにノスタルジックなカフェー建築を見つけることができます。色町の名残ですな。まぁ、名残というよりも、かつてのカフェーが看板を架け替えて今も現役バリバリの建物として使われているんですけどね。
ひとたび入り組んだ細い路地を曲がれば、そこはまるで昭和の迷宮。
『墨東奇譚』で永井荷風が歩いた玉の井のカフェー街のような風景が広がって、かつてのカフェーの玄関先に並べられた小さな鉢植えは、モノクロームの写真の中で赤いチューリップの花を咲かせています。

しかし、現実にはそんなカフェー建築も時の流れには抗えず、櫛の歯がかけるように、一軒、また一軒と取り壊され、かつて賑わいを見せたカフェー街はあちこちに空き地が目立つようになりました。
それがまた郷愁を誘うんですね。
FullSizeRender近頃、かつての輝きを取り戻しつつある熱海。
メジャーな観光地だけでなく、ここにはこんなセンチメンタルな見どころもあるのです。

で、おまけは、その糸川近くの老舗ラーメン店『わんたんや』。
本blogには2度目の登場ですが、ここはいつ行っても満員御礼。
さっぱりしたスープが際立った、まさに王道をいく一品。
ディープな熱海の象徴のひとつです。

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初倉の丘と御一新、のココロ。

去る11月15日は維新の立役者 坂本龍馬の150回目の命日でしたな。
落命した慶応3年11月15日は、龍馬の31回目の誕生日だったといいます。
明治の初期、考えが古い石アタマのことを天保アタマなどといったそうですが、
この天保生まれの英傑は、東洋の小さな島国の未来を憂い、
20年も30年も進んだアタマで短い一生を文字通り疾走したわけです。

IMG_6533龍馬は、単身でこの国の政局を動かす大仕事をやってのけたわけですが、
その決着を見ることなく凶刃に倒れます。
真犯人は誰か?
今も明らかになっていません。

龍馬の息吹を感じようと、京都を訪れるたびに伏見 寺田屋、河原町 近江屋跡地など、龍馬ゆかりの地を巡ります。
IMG_6531しかし、残念ながらわがふるさとしずおかには、
龍馬に連なる見どころは見つかりません。
ところが。
あったんですな。しかも、龍馬暗殺の容疑がかかる人物について。

湯島天神に生まれた幕臣 今井伸郎は、剣の腕も立ち、
長じて京都見廻組に入隊します。
農民出身者を中心に結成された新撰組に対して、この見廻組は旗本、御家人で結成された警備組織。
共に京都守護職の配下に置かれ反幕勢力の取締りを任務としました。
そして、慶応3年11月15日。
今井は、佐々木只三郎ほか5名の隊士と共に、京都は河原町 近江屋に龍馬、中岡慎太郎を急襲。
これにより、二人の維新の立役者は命を落としたのです。

IMG_6532その後、今井は幕軍として戊辰の役、函館戦争と転戦し、
五稜郭で降伏します。
服役2年。特赦によって出所すると、榛原郡初倉村で帰農し、
その後は地域の教育、産業の発展に尽力します。
今井は、1878年にこの地に居を構えました。
その跡地が、島田市と有志の手で保存されています。
三方を初倉の丘に囲まれた谷間の奥の奥。
南には田んぼが広がり、背後は初倉の丘がぐるりと三方を囲みます。
今では茶畑が広がるその丘に包まれるように、その跡地は谷間の一番奥にひっそりとありました。
維新が成り、薩長の主導する世が実現すると、旧幕臣は世を忍ぶように暮らしたといいます。
しかし、今井のように新政府に出仕し、再び世に尽くした人々もいたんですね。
今井はどんな思いで明治を生きたのか。
深いですなぁ。

IMG_6541 で、きょうのおまけは、焼津にある本格ドイツパンのルンベルグ。
ライ麦のしっかりした味わいのある食べ応えのあるパン。
レバーのパテなど、強い味にも負けません。
一見、飾り気のない小さな町のパン屋ですが、きちっとした見事な仕事をするお店です。

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『二丁町』と親子丼、のココロ。

IMG_6447きょうは、しばらくぶりに『二丁町』について。
『二丁町』というのは、ふるさとしずおかにあった公娼のことですな。
時の為政者からお墨付きをもらった色町。
この公娼でもっとも有名なのは江戸の新吉原。
このルーツは、さかのぼれば唐は長安の平康里(ピンカンリー)にあるといいますから大変な歴史です。有名な見返り柳などはその名残だとか。

IMG_64481580年代の後半。家康公に鷹匠として仕えた伊部勘右衛門なる人物が、
主の許しを得て安倍川東岸に遊郭を作ります。
出雲阿国をルーツとする遊女歌舞伎などの流行によって乱れた城下の風紀を正すことが目的だったといいます。
悪いものは一ヶ所にまとめてしまおうって魂胆ですな。
お江戸の町には駿府九十六ヶ町を起源としたものがいくつもありますが、
この『二丁町』もそのひとつ。
はじめ『二丁町』は七つの町で成り立っていたといいますが、
このうちの五ヶ町が江戸に移り、創生期の吉原を形作ったといわれています。
残ったのが二ヶ町だから『二丁町』。なるほどね。

IMG_6319『二丁町』、『双町』などと呼ばれたふるさとしずおかの公娼は、
蓬莱楼、小松楼などの大籬を中心に維新を越えてもなお栄えましたが、
1945年6月の静岡大空襲で灰と化します。
それ以来、『二丁町』は再建されることはありませんでした。
今では、僅かに明治時代の碑文と商売を見守ったお稲荷さんが
往時を偲ばせるに過ぎません。
かつて少年は、オトナへの門をくぐるような気持ちで
この町の大門をくぐったに違いありません。
彼らはこの町で『遊び』の流儀や粋を学んで大人になったのでしょう。
『二丁町』はすでにありませんが、この歴史に習って、
お行儀の悪いオトナたちには『遊び』の流儀や粋についてもう一度考えて欲しいですな。

IMG_6318で、おまけは中村屋の親子丼
常磐町本店ですが、最近は井宮町にもお店があります。
ふるさとしずおかで親子丼といえば、まずはこの中村屋。
タケノコ、シイタケと一緒に甘辛く煮たトリ肉、少し甘めのいり卵に
ほんのりと色づいた炊き込みご飯。
これらがまことにお優しいハーモニーを奏でます。
木の香りがする折りもよろしい。
焼き鳥もまた美味。
この中村屋さん。かつては二丁町で商いをしていたとか。
ってことは、花魁も食べてたんですね。この親子丼を。

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三嶋暦とベビーシュークリーム、のココロ。

IMG_6321三島というところは、水の町といわれるほど清らかな清流が多い。
人口12万に満たない小さな町ですが、
市内に鎮座する三嶋大社がその名の由来といわれる通り、
この町もそこかしこに歴史の香りが漂う魅力溢れる町のひとつです。
この三嶋大社は、一千数百年にも及ぶ歴史を持つ伊豆国一宮。
かの源頼朝が、平家打倒の狼煙を上げたことでも有名です。
きょうのお話は、その三嶋大社のちょっと東にある三嶋暦の館のお話。

IMG_6294 江戸時代までの暦というのは、現代人の感覚でいうカレンダーとはちと違うようでしてな。
年中行事や占いによる日々の指針なんかが書かれていて、
いわゆる生活暦のようなものだったそうで。
三嶋の暦は仮名暦ともいわれ、漢字を用いずに仮名で書かれた
女性や子供向けのもので、河合家が世襲で編纂、発行したものを三嶋大社が流布したのだといいます。
歴史を紐解くと、そもそも暦というのは作物を育てるために発展したもので、
陰陽師で有名な土御門家の統制の元、気候によってその地特有の暦が作られていました。

IMG_6296当時、お上に認められていた暦は、西から伊勢、京、奈良、三嶋、会津の五つ。もちろん、太陰太陽暦です。
月の満ち欠けが基本ですから、1ヶ月は等しく約29日。1年だと約354日。
今の太陽暦と比べると、1年で11日もの差が生じます。
この『約』の帳尻をあわすために設けられたのが『閏月』。
3年に1度、1年が13ヶ月になるんですな。なんか不思議。
例えば、中秋の名月という言葉。
太陰太陽暦の秋は、陰陽五行に基づいたもので7~9月。
FullSizeR真ん中の8月のさらに真ん中が15日。つまり、8月15日が『中秋』ってわけ。
この夜に空に上がる月がまん丸で、そのまん丸のお月様を見て、
これまたまん丸のダンゴを食べるのが日本人ならではの慣習ですが、
現代の太陽暦では中秋の名月は1ヶ月も遅くやってくるんですね。
そんな話をガイドの山中さんがしてくれます。
洋の東西を問わず暦を統一することは大切ですが、
IMG_6301なんだか旧暦のほうが季節感があっていいね。
日本には四季があるから。

で、きょうのおまけは、三島 広小路のララ洋菓子店
長年、三島っ子に愛されているベビーシュークリーム
甘くてふっくらしていて食べ過ぎ間違いなし。

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東海館とうな重のまとい、のココロ。

えー、伊東というところは、東伊豆の中ほどにある観光名所。
伊豆観光でいうところの横綱みたいなものですな。
IMG_6186見どころを挙げれば、伊東温泉に始まり伊豆高原には
大室山や城ヶ崎海岸に一碧湖、さらには、20世紀美術館に川奈ホテルと枚挙に暇ありません。
人口僅かに7万人。小さな小さな海沿いの町は、首都から近い地の利も手伝って、近代以降は観光都市としてその歴史を重ねてきました。

ということで、きょうのふるさとしずおかのよしなしごとは、伊東のお話を少し。

IMG_6198伊東といえばビギナーはまず伊豆高原でしょうな。
ワタシにも思い出があります。
かわいいかわいいガールフレンドと一碧湖でボートに乗ったりして。
かれこれ30年以上前の話ですが。
まぁしかし。
郊外の観光地もいいものですが、大人になると中心街の深~い魅力に惹かれます。
センチメンタルでノスタルジック。古き良き時代の温泉街の幻影に出会えます。
JR伊東駅から南に約1km。伊東市街を東西に分断して流れる松川に架かる大川橋近く。
1928年 開業の温泉旅館 東海館は、70年に及んだ営業を終え、
2001年から同市の文化施設としてその内部が公開さています。
IMG_6204この東海館が今回の一押し。
まさに、大正から昭和初期の古き良き温泉街の情緒をたっぷりと湛えた木造三階建ての温泉旅館。
38年に伊東線が開通した後に、同館は黄金期を迎えたといいます。
創業者の稲葉安太郎氏は、生業が木材業であったことから、その所有する貴重な木材を惜しみなく同館の建築に投入しました。
階毎に3人の棟梁が腕を競い合った異なる意匠の彫刻、3階の120畳の大広間、ローマ風のタイル風呂、そして屋上の望楼など、見どころは尽きません。
IMG_6208館内はまさに昭和初期への時間旅行。
この日はダメでしたが、同館は日帰りの浴場利用も可能だとか。
つかの間ですが、現を忘れて古の温泉旅館を楽しめます。

腹が減ったら、伊東随一のうなぎ屋『まとい』 へどうぞ。
タイムスリップを終え、老舗旅館の唐破風を出ると、まさにそのまん前に暖簾を構える人気店。
FullSizeR醤油の香味がきりっとした、甘みを押さえたタレにふっかふかの柔らかな蒲焼き。
お店の繁盛ぶりにも納得。
うなぎはいいね。池波正太郎先生の教えどおり、うなぎはがっついて食べるべし。

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掛川の報徳思想とカキ氷 抹茶味、のココロ。

『道徳』という言葉の意味を辞書で調べると、『人が善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体』とあります。
深いですなあ。

IMG_6126事業を営んでいると、ある時は、知った顔の儲け方に『あいつは品のない稼ぎ方をする』と注文を付けたくなったり、またある時は、自身の商売に『これは本当に世のためになっているのか?』なんて疑問を感じたりすることもあります。
誰もが『正しい』、そして『世のためになる』儲け方をしたいと思うのでしょうが、周りを見渡してみると『儲かればいいじゃん』と顔に書いてある人も結構います。

IMG_6131遠州は掛川の公益社団法人 大日本報徳社は、二宮尊徳翁が唱える報徳思想の普及活動を続ける全国各地の報徳社の総本山。
つまり、師曰く、私利私欲に走らず世のため人のために尽くせば、
やがてそれが実となって自らに還元される、というのですな。
まことに清廉なすばらしい考え方です。品格を感じますな。
かくあるべしと思います。
この大日本報徳社。皇室とも所縁があり、掛川城に隣接する本拠には実に魅力的な歴史的建造物群が多く残り、そのほとんどが平成の今も思想普及の学び舎として使われています。

IMG_6137掛川というところは、人口僅かに12万。周辺を含めた商圏人口も30万に満たない小さな町ですが、実にみどころが多い。
城を中心に発展した歴史そのままに、今も掛川城をとりまく中心地には、木造で再建された天守をはじめ、先の報徳社の歴史的建造物群、幕末期の二の丸御殿、太鼓櫓に、城の鬼門を守った龍尾神社など、平成の今もこの街が如何に歴史を紡いできたのかがわかる史跡が各地に残ります。

IMG_6147 そして、かつての城の郭 竹の丸に残る旧家『竹の丸』。IMG_6144
明治の終わりに、葛布の商いで財を成した松本翁が建てたこの名建築は、式台玄関が設けられて一見武家屋敷のよう。
贅を尽くした離れの二階 貴賓室は、
近代豪商の栄華を今に伝えています。
きっと、松本翁も報徳の精神に基づいた立派な商いをした人物に違いありません。

母屋の土間では、掛川産の抹茶を使ったカキ氷やロールケーキもいただけます。
いやはや、掛川の時間旅行は実に楽しい。

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遠州 関所と稲勝さんのとんかつ、のココロ。

21世紀ともなると、モノ、カネ、ヒト、ジョウホウの流通速度はすさまじく、
ライアル・ワトソン氏のいう100匹目のサルは世界各地で出現するのでしょうが、
かつて、世界の文化伝播や物流は海運が中心でした。
そんな、中世の理を今に伝える二つの地が、遠州は浜名湖の北岸と南岸に残ります。
気賀と新居。
ということで、きょうのふるさとしずおかのお話は、前回に引き続き遠州のお話。

IMG_2684気賀というところは、東海道の見付宿と御油宿の間を、浜名湖の北岸で結ぶ街道
本坂通 にある宿場町です。本坂通とは、いわゆる姫街道のことですな。
気賀は、浜名湖の正に北岸に位置していて、その背後には遠州の山々が連なり
南は浜名の海に挟まれた、まさに要害の地でした。
町を南北に貫く都田川に橋はなく、当時の人々は渡し舟で往来したといいます。
1498年の明応の大地震によって南岸 東海道新居の交通が困難になると、
北岸の気賀が地勢的に有利になってヒト、モノ、カネ、ジョウホウが集まったんですな。
いわゆる自由都市のようなものが気賀に出来上がったという人もいます。

IMG_5997一方の新居は、東海道の舞阪宿、白須賀宿の間 浜名湖南岸の宿場。
今切口といわれる浜名湖と遠州灘のつながる開口部があり、
同地も気賀と同じく古くから東海道の要所とされていました。
浜名川と東海道が交差する地勢で、古くから賑わったモノの集積地的な
機能を持った港湾都市 新居。
しかし、前述の明応の大地震による津波で大きな被害を受け、
浜名湖の開口部は沈下し今切口は決壊。
これによって浜名湖は汽水化したのだといいます。

IMG_6006この二つの港湾都市には、今も中世の関所跡が現存します。
『気賀関所』と『新居関所』。
ともに、往時を偲ぶ絶好の史跡です。いずれも浜名の湖の恵みに育まれたもので、
いにしえのヒト、カネ、モノ、ジョウホウの伝播、流通を学ぶ良きところです。

IMG_5996で、きょうのおまけは、浜松は肴町の名店 とんかつ『幸楽』。
『人生をとんかつに賭けた』という名人 稲勝さんの揚げるとんかつは
他に並ぶもの無し。
そう断言できる一品です。ホントに美味い。
脂がさらっとしていて、これがホンモノのとんかつか!と驚くこと間違いなし。
稲勝さん、どうか、末永く暖簾を守ってくださいね。

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井伊谷と出世ダンゴ、のココロ。

えー、遠州は浜名湖の北東4kmほどのところに、古くから『井伊谷(いいのや)』と 呼ばれる小さな谷があります。人口4,000人に満たない小さな町。
今、この静かな谷間の町は空前の観光ブームを迎えています。
NHK大河ドラマが、この谷の国人領主 井伊氏を取り上げたのです。
きょうは、この井伊谷のお話を少し。

IMG_6061井伊氏は、南朝の昔からこの地を本貫とする豪族、いわゆる国人領主です。
しかし、井伊のような小規模領主は、平時であればともかく、
乱世ともなると国境を接する大規模勢力の動静を見極めねばならず、
その領地運営の舵取りは困難を極めます。
時は戦国。東に仰ぐは駿河の太守 名家今川。
井伊氏は、足利の血を引くこの名門の軍門に降り
所領の安堵を得たものの、時のうねりは平安な暮らしを許しません。

IMG_5966大きな傘であったはずの今川は衰退期に入り、南下する甲斐の古豪 武田、
それに呼応した三河の新興勢力 徳川の挟撃を受けます。
井伊の運命や如何に。
この難局から井伊を救ったのが、時の当主 尼小僧 次郎法師、おんな城主 直虎です。
この後に家督を継いだ直政は、徳川家家中でめきめきと頭角を現し、
若輩ながら四天王の末席に名を連ねるほどに出世します。
以来、その宗家 掃部頭(かもんのかみ)家は15代にわたって幕閣に深く関わり、
幕末には大老 掃部頭 直弼を輩出します。

IMG_5982この井伊谷の見どころは大きく分けて二つ。
神宮寺川で南北に分けられた、井伊谷城址のある北側と龍澤寺のある南側。
城山の南端に突き出た峰に残る城址からは、
のどかな谷間に田圃が広がる井伊谷の様子がパノラマに広がります。

一方、井伊家の菩提寺 龍澤寺は、小堀遠州作庭の庭が美しい、
それはそれはすばらしいお寺です。
寺の北には、後醍醐帝の皇子 宗良親王のご陵墓もあります。さすが、南朝派。

IMG_5986そして、寺の山門を出て南へ下るとお待ちかねの休憩処。
名物『出世だんご』は、ふりかけられた浜納豆の塩気が効いて旅の疲れを癒します。
おまけは、同店の『カキ氷 三ケ日みかん氷』。
これもすばらしい。
店の兄さんもイケメンだし。

言い伝えよれば、常に民と共にあった国人領主時代の井伊家の領地支配。
井伊谷は、そんな中世の記憶を今ににとどめる、ロマンチックな谷間の町でした。

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日坂宿と宮正路園のメロンスムージー、のココロ。

IMG_5862毎日 暑いですな。
こう暑いと、知恵も体力も見えない何かになって空に吸い取られているような気がします。
しかし、腹を括ればそれもまた気持ちの良いもので、いっそのこと、外へ出掛けて思う存分汗をかくのも爽快です。

えー、きょうは掛川のお話。
掛川と一口にいっても、見どころが多過ぎていけません。
数ある見どころの中から、きょうは本blogらしく日坂宿のよしなしごとを。

IMG_5864日坂宿は、お江戸は日本橋から数えて25番目、遠州最初の宿場です。
東に掛川宿、西に金谷宿、かつては箱根峠、鈴鹿峠と合わせて東海道三大難所といわた、夜泣き石で有名な峠 小夜の中山(さよのなかやま)の西に位置します。
今では、国1バイパスや旧国1であっという間に越しちゃうんですけどね。

山間の小さな集落、文字通りの山里で、ひとたび長雨や増水で大井川が越せぬとなれば、
西から江戸へ下る旅人は金谷宿に足止めされ、さらに日坂宿にも溢れたといいます。
そんなことから、この小さな山里には大小合わせて33の旅籠がありました。
平成の世を迎えて久しい今も、そのうちの特徴的な三つの建物を観て、触れて、体験することができます。
地域と有志の皆さんの努力に感謝。

IMG_5853そのひとつが大旅籠の「川坂屋」。
宿場町の西のはずれに位置するこの大旅籠は、ヒノキの上段の間が造られ、その精巧な木組みや格子、欄間の造りから、武家や公家も逗留したといわれます。
広大だった敷地は、現在では旧国1の拡幅や国1バイパスの橋脚に取られましたが、それでも、当時の姿と格式を今に伝えています。
これまで、あちこちの宿場を訪ね多くの旅籠を観ましたが、この大旅籠は実にすばらしい。
IMG_5903そして、その東には一般市民が利用した旅籠「萬屋」。こういう宿には、いわゆる「飯盛り女」みたいな人がいたんでしょうなぁ。
最後に、宿場の要職 問屋場(といやば)、今で言う郵便局+レンタカー屋さんを務めた伊藤 文七が暮らした「藤文」。この時期、母屋裏の蔵前には、アジサイがひっそりと咲いています。

シブいシブい宿場跡ですが、ここは観光客で賑わう他の宿場とは一味違う魅力があります。
家々は、今もいにしえの屋号を軒先に掲げます。
「山田屋」、「わた屋」、「近江屋」、「八文字屋」…。
江戸の息遣いが今もなお聞こえるようです。

IMG_5904きょうのおまけは、道の駅 掛川のメロンかき氷
氷室でじっくりと冷やした氷に、掛川産クラウンメロンのシロップがたっぷり。
それと、宮正路園のメロンスムージー。なんとメロン100%。これがまた格別。
いつも変わらぬおばさんの笑顔と心遣いにも感謝。
一杯900円也。損はないよ。

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ペルリ提督とキンメダイ、のココロ。

下田というところは、ふるさとしずおかは伊豆国の中でも知名度が高い。
幕末の黒船来航によるものなんでしょうな。
黒船来航、日米和親条約の締結。
その後、横浜港が開港されるまでのおよそ5年の間は、
この地は文字通り日本でもっとも米国に近いところであったわけです。
というわけで、きょうのよしなしごとは伊豆国は下田のお話。

下田というところは、古くから漁業と観光の町として栄えましたが、
そこで暮らすのはおよそ22,000人。小さな小さな町です。
ここ数年は、長引く不況や震災の影響を受けた大型観光施設の閉鎖による大量解雇など
深刻な問題も抱えています。

IMG_5737しかし、しかし。
この下田にはたくさんの見所があるんですな。
例えば、爪木崎。
東にちょこんと飛び出た須崎半島の東端にあるこの地は水仙の名所。
12月から2月にかけて300万本の水仙が花を咲かせます。
小さな入江に俵磯と呼ばれる溶岩石と白亜の灯台。
穏やかで美しい風景です。
IMG_3062そして、なんと言っても懐古情緒いっぱいのペリーロード。
石造りの蔵やなまこ壁の建物が残るこの道は、
ペルリ提督が下田に上陸したとき、
西に位置する了仙寺まで乗組員300人を引き連れて
行進した道といわれています。
この道の中ほどにある骨董&珈琲の風待工房
暖簾をくぐると、歴史を刻んだ様々な陶器と香ばしい珈琲の香りが旅人を出迎えます。
IMG_5754物静かで優しい笑顔の亭主はオートバイ乗り。
イタリーのDUCATIを愛する自由人です。
なんと、この古い店 以前は蕎麦屋だったとか。
この港町が栄えた時代には、この店の蕎麦がお女郎さんの空腹を満たしたんでしょうなぁ。
川辺の柳がそんないにしえの時を想像させます。
それから、この時期 了仙寺は境内のアメリカジャスミンが満開。
とってもいい匂いがします。

IMG_5757で、きょうのおまけは下田バーガー
キンメダイのフライをはさんだご当地グルメ。
香ばしい衣がふっくらした白身を包みます。
甘めのソースがよろしい。
キンメダイはやっぱり美味いね。
下田港は漁獲量日本一なんだってさ。

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